2011年5月19日木曜日

Youtubeでシューティング動画を見続けていて思いついた。「臨時ボディ」論。

ひとは、ひとと話をするときには、相手になりかわって聞きながら発話し、相手の話を聞くときは、相手の目で自分を眺めながら聞く。

その発話の間、聞く間に会話体という臨時ボディが出現する。

この臨時ボディは「波立ち」として出現しつつ、ラングという過去性とパロールという現在性の「間」を往復する。

その「波立ち」が強まるときに「現」は鮮やかに照らし出され、弱まるときそれぞれのボディが意識される。

話そうという決意からしか「臨時ボディ」は生まれない。

自身の身体性が拡張されていくプロセス。

そしてこの「臨時ボディ」は輪廓を持たない。

雑多な霧のような濃度として「波立ち」出現する。

また、ひとが目覚めている限り、この「臨時ボディ」を脱ぎ捨てる事はできない。

「臨時ボディ」のイメージは、彗星のダストテイルとイオンテイル。

その「テイル」を持った「臨時ボディ」を方向付けるのは「まなざし」。

メルロ=ポンティの「両義性」フレーム。

ひとはいつも、低濃度の「臨時ボディ」を身に纏って「世界」に「住まって」いる。

社会的な関係性への有機体としての関わっていきかたも、すべてこれで書き直すことができるのではないかと期待する。

0 件のコメント:

コメントを投稿