- 「思い(世界)」はことば(標本)として固定されるときに、その大部分をそぎ落とされる。乾いた動物のミイラから、その動物の生き生きとした動き(生)を読みとることができないように、ことばは干からびている。
- そして写真がまなざしの標本なら、書かれた言葉は「思いの標本」であると言える。そしてそれは固定された地点をも持たない。固定されたのは「世界(思い)」だ。
- 写真というのは誰かの「まなざし」をある地点で固定したものだ。そういう意味で「写真はまなざしの標本である」とも言える。
- ナンシー、詩人だな。
- 3D会場図がきれいにできたなあ。自画自賛なう
- @wabisukei 税務署とか銀行は呼んでくれますよ笑
- @wabisukei 法人じゃなくても「社長」は名乗れますよ。だめなのは「代表取締役」です。
- 「都議会図書館蔵書9万冊、でも入館者1日12人だけ」こういうのを税金の無駄使いというんだ。怒りなう http://bit.ly/e82uPg
- しばらくTLで拝見しなかった方のつぶやきが見られるというのは、ほっとするもんだ。
- ジャン=リュック・ナンシーの「水と火」という本を買ってみたのだが、まずブックデザインでびっくりしている。
- 昔の商人は「滅私奉公」することで商いの目指す「世界」を見るすべを学んだ。この「滅私」こそが重要なのだ。
- そう言う意味では、TwitterのTLというのは「私(自分)」というスイカの「皮」だな。
- 「私(自分)」というのは、知り得た存在全てのものの比喩である、と言える。
- 「私はこう思うよ」と言うとき、その「私」の中には、いままで自分が知り得たもの全てが含まれている。一つの心臓が(脳が)自分なのではない。
- だから「私」も「恋人・夫婦・家族」も「学校・会社」も「社会」も、実は同じ事柄を含んでいる。目に見える(知りうる)全てのものが「私」なのだ。
- 人は一人でいるときは一人の「私(自分)」だが、二人でいれば二人の「私(自分)」になり、千人いれば千人の「私(自分)」になる。「私(自分)」は身体では区分されないもの。
- 「現象学的と呼びうる認識様式の対象は、定義によって反省されざる経験、身近な環境とのなじみ深い第一次連関を反省し、たとえ「客観的」観点から見て幻想的に見えようとも経験としては依然として完全に確実なこの経験の真理を明るみにもたらすことである。」プルデュ
- デザイン案送信なう
- 「モナリザの目に文字」ダビンチならやるだろうな。http://bit.ly/h1ExCb
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